海外に行くたびに考えさせられることがある。
それは、「国を守る」とは単に国境を守ることではなく、文化、経済、そして社会の秩序を守ることなのだということだ。
たとえば海外の空港では、一定の緊張感と規律が漂っている。
誰もが空間を共有する上での最低限のマナーを心得ており、軍や警察の存在が秩序の維持を無言で保証している。
その国の「こうあるべき」という共通認識が、そこに生きている。
一方で日本はどうか。
羽田空港で、エレベーターを待つ日本人を押しのけるようにして先に乗ろうとする外国人や、公共の場で悪態をついている光景に遭遇したとき、心のどこかでひっかかりを感じる。
日本の空港には警備の存在感も薄く、何より、注意する空気もない。
「郷に入っては郷に従え」ではなく、「好きにしていい国」という印象を与えてしまっているのではないか。
「日本いいでしょ?楽しんでね」とただ歓迎するだけでは、文化や秩序は守れない。
むしろ、他国の価値観やルールに押し流され、日本らしさが静かに侵食されていく危うさがある。
ふと思うのだ。
禅や武士道に象徴されるような、日本人が大切にしてきた精神性はどこに行ったのだろうか。
そうした美徳が公共空間から失われ、代わりに「遠慮」や「無関心」がはびこってはいないだろうか。
国を開くことは大切だ。だが、それと同時に守るべきものがある。
文化も、秩序も、そして精神性も。
今一度、「開かれた国」と「誇りある国」をどう両立させていくかを真剣に考えるべきであると、強く感じる。
